暑かったですね
ご無沙汰いたしておりますうちに、八月も終わりに近づいてまいりました。今年も酷暑というほかない暑さで、とくにお盆中は猛烈でした。お疲れは出ておられませんか? 残暑お見舞い申し上げます。
さてこの8月は、熊本県勢が大健闘した高校野球に加え、リオオリンピックが開催されていましたから、スポーツ色が強い日々でしたね。
今回のオリンピックは、きれいに日本の裏側(ブラジルからすれば日本が裏側ですね。そもそも球体に天地や表裏があるものかしらともちょっと思います)での開催でしたから、話は実に明快、こちらが夜の12時ならばあちらは昼の12時、あちらが午後の4時ならこちらは午前4時。というわけですから、普段なら寝ている時間に、頑張って起きておられた方もいらっしゃることかと思います。
思えばここ数度のオリンピックは、ロンドン、ソチ、そしてリオ……毎度激しい時差との戦いを繰り広げてまいりました。しかしつぎの冬のオリンピックは韓国・平昌、夏は東京、その次の冬が北京ですから、2022年までは、時差なし、もしくはあっても1時間程度でオリンピックを観戦できます。リオを乗り越えた我々に、しばらくは安寧の日々が待っているのです……。
さておき、世界にはいろいろな人がいるのだ、というごく当たり前のことを、それでも何かと想像力の乏しい自分に、自然と教えてくれるのがオリンピックです。コルコバードの丘のキリスト像を、日本でいえば鎌倉の大仏……いや牛久の大仏なのかなあ? と、なんとなく思いを巡らせてみることを自然とうながすのが、オリンピックです。8月はそのようなことを思っていました。
オリンピックという一つの催しに集う選手たちはしかし、ばらばらの、多くの場合は日本よりも過酷な環境におかれています。たとえば海外メディアの記者からの、体操の内村選手への失礼な質問を一蹴した、平行棒金メダリスト・ウクライナのベルニャエフ選手。ウクライナはクリミア紛争がいまだ終結せず、彼は練習用のマットの交換すらままならないような環境で鍛錬をしてきました。祖国を離れないのは家族がいるからだといいます。誰もみな、そういった一律ではない境涯にあり、そしてたとえばキリスト像と大仏のように一律ではない宗教・信条に基づいて生きているのですけれども、場所や信じるものは違っても、巨大に作りあげてしまうところなんかはおんなじで、勝ちに喜び負けに涙をする姿は、やはり等しく私たちの胸を揺さぶる感情です。
いつの間にか、現代はとかく不寛容な社会・時代ということが言われるようになりました。20世紀後半から急速に進んできたグローバリゼーション(これには寛容が不可欠ですよね)への反動なのかもしれません。確かに、自他の違いを受け入れることは非常に難しく、正論をふりかざすのはとても容易だと感じます。
そうであっても、違ったものの中にたしかにある、自らと同じである部分に相互理解への端緒をつかもうとすることは、やってみる価値のあることなのかもしれないなあ、と、ひとりひとり違う選手たちの躍動を見ながら、日々の生活、人間関係においての自分を顧みた夏になりました。
夏の思いでその1.
7月は恒例のバーベキューでした。今年はちびっこがいっぱいで、例年以上ににぎやかで楽しい会になりました。